[episode 1] 笠井 信一 氏
大正5(1916)年5月、宮中で開催された地方長官会議の場で、当時の岡山県知事であった笠井信一氏は、大正天皇から「県下の貧しい人々の状況はどうか」とご下問を受けた。笠井知事はすぐに岡山県内の貧困の事情を調査し、悲惨な生活状況にあるものが県民の1割に達していることが判明した。この事態の重大さに同知事は、日夜研究を重ね、ドイツのエルバーフェルト市で行われていた「救貧委員制度」を参考にして、大正6(1917)年5月、「済世顧問設置規程」を公布、民生委員制度の源と言われる済世顧問制度が生まれた。
『民生委員制度40年史』(全国社会福祉協議会)より
[episode 2] 林 市蔵 氏
大正7(1918)年秋の夕暮れ、大阪府下のある理髪店で50歳くらいの紳士が散髪していた。鏡に写る町の風景を見るともなしに見ていた紳士の目は、ある一点に釘付けになった。それは、40歳くらいの母親と女の子が夕刊を売る姿であった。散髪を終えた紳士は、その夕刊売りに近づき1部買ったあと、一言、二言話しかけ、その足で近くの交番に立ち寄った。
紳士は、この夕刊売りの家庭の状況を調べさせたのであった。紳士は、当時の大阪府知事林市蔵であった。
後日、巡査から次のような報告があった。街角で見かけた母親は、夫が病にたおれ、4人の子どもを抱え、夕刊売りでやっと生計を立てている。子ども達は、学用品を買えず、学校にも通っていない。林知事は、自らの貧しい生活を思い起こし、しばらくは、目をとじたままであった。このような母子は他にもいるはずだと思い、部下に調査を命じ、管内をいくつかの方面、今でいう地域に分け、それぞれの方面に委員を置き、生活状況の調査と救済などの実務にあたった。方面委員制度の始まりである。
『民生委員制度40年史』(全国社会福祉協議会)
『民生委員制度創設80周年記念誌』(熊本県民生委員児童委員協議会)より